見られなかったあの旗とかばん
近所の家に、旗と一緒にかばんが掲げられているのを、しばらく見られなかった。
それはこの国でのお祝いの風景。
子どもが高校の卒業試験に合格したよ、という合図。
「この家は、ひとつの通過儀礼を終えました」という、静かで誇らしいサイン。
本来なら、こちらも「おめでとう」と思うだけの、なんでもない光景。
でも、私は見られなかった。
胸の奥が、ぎゅっとなるから。
ああ、うちはこの世界線じゃなかったんだ、と
何度も思い知らされるから。
「普通の未来」が消えるということ
子どもが、いわゆる「普通の道」を通らなかったとき。
そのとき、親の中で起きていることは、
「困った」とか「大変」とか、そういう言葉では足りない。
あれは、喪失だった。
本来あるはずだった未来が、消えてしまう。
卒業式に出るはずだった日。
「よくやったね」と言って、写真を撮るはずだった瞬間。
そのあと、進学や就職に向かっていく、なんとなく見えていた道筋。
そういうものが、音もなく、なくなる。
それは、誰にも弔われない喪失
でも、この喪失は、誰にも弔われない。
誰もお葬式をしてくれないし、
「それはつらかったね」と正式に認めてくれる場もない。
むしろ、
「まだ若いんだから大丈夫だよ」とか
「いろんな道があるよ」とか
「もっと大変な人もいるし」とか
そんなふうに、軽い励ましを受けることのほうが多い。
病気にはなったけど、幸い生きてるし。
それには感謝してもしきれない。
だから、自分でも思ってしまう。
こんなことで、悲しむわけにはいかない。
親なんだから、がっかりしている場合じゃない。
喪中の表札を出してもよかったくらいの喪失
でも、本当はどうだったんだろう。
あれは、喪中の表札を玄関に出してもいいくらいの喪失だったんだと思う。
「いま、この家は喪中です」って、
静かに示してもよかったくらいの出来事だった。
それくらい、何かが終わっていた。
悲しまなかったことが、苦しさを長引かせる
私は、それをやらなかった。
悲しむことも、ちゃんと認めなかった。
「前向きに考えないと」と思ったし、
「こんなことで落ち込んでいる場合じゃない」とも思った。
だから、なかったことにしようとした。
でも、なかったことにはならなかった。
近所の旗と、かばんが、
何度も何度も、それを思い出させた。
「これは喪失なんだ」と気づくこと
もしかしたら。
あのとき必要だったのは、
前向きになることでも、立て直すことでもなくて、
ただ、
「ああ、これは喪失なんだな」
って認めることだったのかもしれない。
それでも、人生は続いていく
人生は、思った通りには進まない。
それはわかっていたつもりだった。
でも、その「外れたこと」に対して、
こんなにも悲しみがあるとも思っていなかった。
でも、悲しんでいいものは、悲しんでいい。
名前のない喪失に、名前をつけてあげるだけで、
少しだけ、呼吸ができるようになる。
そして不思議なことに。
ちゃんと悲しんだものは、
少しずつ、形を変えていく。
無理に前向きにしなくても、
勝手に、別の意味を持ち始める。
もし、いま。
あなたが喪失を感じているなら。
前向きになれなくてもいいし、
転換なんて考えられなくてもいい。
ただひとつだけ。
それは、喪失なんだと認めてあげてほしいです。
そしてそれは、
ちゃんと悲しんであげていいものかもしれない。

