ある日、気づいてしまうこと
依存症の家族を持つと、
ある時、ひとつの現実にぶつかります。
それは、とても残酷な現実です。
だれも回復を保証してくれない。
医者も。
カウンセラーも。
支援者も。
そしてたぶん、
神でさえも。
回復する人もいる。
回復しない人もいる。
それが現実です。
だから私は、
「大丈夫ですよ、きっと回復します」
という言葉はちょっと無理。
そんな保証は
本当はだれにもできないからです。
では、そのとき家族は
どうやって立ち続ければいいのでしょうか。
目の前にいる息子 vs どこにもいない息子
依存症がピークだったころ、
息子はまるで別人でした。
私はそれを、
「V氏に乗っ取られている」
と感じていました。
V氏というのは別の記事で書くと思いますが、
依存症人格のことをこのように読んでいました。
V氏はこの体を、
破滅の方向へ向かわせようとしている。
外から見ると、
もう息子はどこにもいないように見える。
死んでしまったようにも見える。
依存症の家族を持つ人なら、
この感覚を知っているかもしれません。
「もうこの子はいないのではないか」
という、あの恐ろしい感覚です。
それでも私は思っていました。
この体のどこかに、あの子はまだいる。
体に現れているもの vs 体の奥にいるもの
私が信じていたのは、
息子の「人格」ではありません。
もっと原始的なものです。
もっと深いもの。
この体のどこかに、
あの、
ものすごくかわいいあの子が
まだ残っている。
ただ今は
Vに乗っ取られていて、
外からは完全に見えないだけ。
それでも私は思っていました。
この体の奥に
まだあの子はいる。
息子は小さいころ、
「そらにいたころ」の話をしていました。
学校みたいな場所があって、
そこからいろんな女の人の写真を見て
このママを選んできたんだ、と。
本当かどうかはわかりません。
でも私にとっては、
とても自然な話でした。
だから私は思っていました。
Vがこの体を乗っ取っていても、
この体の奥に
まだあの子はいる。
絶望の三年 vs 手放さなかったビジョン
正直に言えば、
希望なんてほとんど見えませんでした。
正直言えば何度もあきらめた。
それでも私は
あるビジョンを手放さないようにしていました。
数年後には、一緒に笑っている。
もしこのイメージを
自分が失ってしまったら、
すべてが終わる。
そんな気がしていたからです。
でも、本当にあのビジョンは叶いました。
可能性を信じること vs 信じ続けるという行為
信じるというのは、
可能性が見えるから
信じることだと思われがちです。
でも私は、
そうではないと思っています。
信じるというのは
ダイナミックな行為です。
可能性が見えるから信じるのではない。
可能性が見えなくても
信じるという行為を続けること。
それが
信じるということなのだと思います。
神の保証 vs 人間の信念
神でさえ保証できない回復。
それでも私は、
この体のどこかに
まだあの子がいると
信じ続けていました。
もしあの信念がなかったら、
私はあの三年間を
生き抜けなかったかもしれません。
見えない存在を信じるということ
もし今、
あなたの大切な人が
依存症に乗っ取られているように見えるなら。
そして
「もうこの子はどこにもいない」
そんなふうに感じているなら。
どうか、
一つだけ思い出してほしいのです。
外からは見えなくても、
この体のどこかに、まだいるかもしれない。
あの人は。
信じるというのは
不思議な行為です。
可能性があるから信じるのではない。
むしろ逆なのかもしれません。
信じないと、信じられないのです。

