ちょうちょを捕まえられるようになったら —Even Flowの歌詞から

今日ラジオで急にPearl Jamの曲がかかったので思い出してしまいました。
Even Flowはこのバンドの曲の中でも一番好きな曲のひとつです。
危機の当時も聴くことがありました。

ホームレスのかたを題材にされたということですが
少し依存に重なる部分があって
とても心に残ります。

Some day yet he’ll begin his life again
Whispering hands will lead him away

この一節を聴いたとき、
私は「希望」として受け取ったわけではありませんでした。

もっと切実なもの。

——いつかまた生き始めてくれるんじゃないか。
——なにかが、この子を導いてくれるんじゃないか。

そうやって、どこかにすがるような気持ち。
祈りに近いものだったと思います。

依存症の家族でいると、
この「祈るしかない感じ」を、何度も経験するものです。


「感じる前に消してしまう」

Thoughts arrive like butterflies
Oh, he don’t know, so he chases them away

この歌詞に、私は強く引っかかった。

感情や思考は、来ている。押し寄せている。
まるで蝶のように、ひらひらと際限なく頭の中に現れる。

でも、それが何かを理解する前に、追い払ってしまう。

それは、知りたくないからです。


なぜ「感じる前に消す」のか

といっても、これは意志の問題ではありません。

人の脳は、強い不快や処理できない感情を
「危険」として扱うようにできています。

だから、

  • 不安
  • 恐怖
  • 罪悪感
  • 空虚感

こういったものが一定以上になると、

感じなくていいように対処しようとしてしまいます。


それが習慣になると、感じる力そのものが弱くなる

この「追い払う」という反応は、
一度きりでは終わらないでしょう。

繰り返されるうちに、それは習慣になっていきます。

そして、

感じる前に消す
また感じる前に消す

を続けていくうちに、

感情そのものを感じにくくなっていきます。

依存症や心の病、トラウマに苦しむ人々の
感情に関する語彙力の少なさというのは
良く知られているところですよね。


「感じても大丈夫」という経験がなかった

ここがとても重要だと思っています。

人が感情を受け取れるようになるためには、

「感じても大丈夫」
「それを抱えても壊れない」

という経験が必要になります。
それは、受け皿のこと。

子供のとき、お父さんお母さん、あるいは仲間が、
どのようにして悲しかった・苦しかった自分を受け止めてくれたのか。

そういったことです。

でもそれがなかった場合、
あるいは、それを両親や仲間に期待できなかった場合
自分ひとりで処理してしまいがちです。

そのとき、感じること自体が危険になる。

そうなると、

感じる前に消すことが当たり前になっていきます。
安全ですからね。

そんなとき、依存対象である物質なり行為なりに出会ったとします。
「もう何も感じたくない」という習慣を持つようになった脳にとっては
これはもう画期的な解決策です。

なにか「気配」があるだけですでに
これ一本で乗り切ろうとするかもしれません。


ちょうちょが捕まえられるようになったとき

回復時の再発防止にも大変重要なことですが、
なにがこのとき「気配」であったのか。
この「気配」を、つまり、この曲でいう
「ちょうちょ」をつかまえられるようになるということ。

これが、渇望(依存対象をまた欲すること)がおきたときに
なにがきっかけだったのか把握できるようになるということ。

ちょうちょを捕まえようとしはじめたとき、
その人は回復の道に進んだのだと思っています。


回復には「いっしょに抱える」場所が必要になる

ただ、一人で抜け出すのは、とても難しいです。

なぜなら、

「安全」な環境が存在していないと
感じるという選択自体ができないからです。


だから必要になるのは、

  • Community
  • 受け皿
  • 家族

そういうものが一体となって、

「一緒に抱える」こと

その中で初めて、

「ここなら感じても大丈夫かもしれない」
「ここなら消さなくてもいいかもしれない」

そう思える瞬間が生まれます。

本人をとりまく家族・コミュニティーの大切さを
また改めて書く機会になったのでした。